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・あだなは「姫若子」 イケメン? ひきこもり?
日本史の資料や雑誌などに載っている長宗我部元親の肖像画は、頬のこけた、しわの多い老人のものばかりです。
しかしこれは晩年のもの。
若い頃は背も高く色白で、非常に柔和であったと記録されています。
ただ、人と接することが苦手で口数も少なく、一日中部屋にひきこもっていることも珍しくなく、
陰では家臣たちから「姫若子」と呼ばれていたようです。
初陣は22歳の時。戦国大名としてはやや遅いデビューでしょう。
しかし、ここから元親の四国制覇の夢が始まります。
・元親の恐るべき先見性! 天下人は織田信長と予測!
元親の最も優れていた点は、情報収集能力もさることながら、
集めた情報を元に大胆な予想を立て、その目に狂いがなかったということではないでしょうか。
元親がまだ土佐国の一郡しか領有していなかった頃、京都や東海、近畿、中国地方の情勢を見て、
近い将来に織田信長の時代が来ることを予見します。
当時の信長はやっと美濃を支配下に入れ、岐阜城に入ったばかりだったにもかかわらずです。
・明智光秀を介し、斎藤利三の妹を正室に迎える!
元親はその信長に、家臣の娘を自分の正室に迎え、同盟を結びたいと願い出ます。
遥か四国の土佐からそうした依頼が来たことに、さすがの信長も驚きますが、内心はうれしかったことでしょう。
この時、元親と信長の間を取り持ったのが明智光秀です。
光秀は家臣の斎藤利三の妹(縁戚の女性説もあり)を元親のもとへ嫁がせます。
以後、光秀は信長家臣団で四国方面担当のような役割を果たすことになります。
今年7月に発見された元親の手紙が、直接光秀ではなく、利三に依頼していたのは義理の弟から兄という縁によるものでしょう。
元親と光秀・利三の関係は、この時から始まります。