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晩年、武蔵これまでの人生を振り返り、自身の経験を記した『五輪の書』
『五輪の書』の内容説明と武蔵の最後を追いました。
『五輪書』は宮本武蔵が晩年に記した兵法書です。
江戸時代頃までは、『五輪の書』ではなく「五巻の書」「兵書五巻」「地水火風空の五巻」「兵法得道書」などと
さまざまな呼び名で呼ばれていました。
熊本県では「五輪書」と呼ばれてはいたもの、呼んでいた人は僅かでした。
全五巻あり、1巻ごとに「地・水・火・風・空」という巻名が付けられています。
巻名となった「地水火風空」は宇宙を構成する五元素です。
「地の巻」では二天一流の基本と兵法道のあらましを述べ、「水の巻」では36項目において肉体と精神面での
修練の方法説き「火の巻」では実戦で勝つための戦法を書き記しています。
「風の巻」では9項目に渡って他流について書いています。
他の流派と比較することによって、二天一流の本質を見抜き、他をよく知らなければ
自己を知ることはとうていできないと説いています。
「空の巻」では武蔵自身が到達した「空」の境地について書かれています。
寛永20年(1643年)10月、武蔵、六十歳の時に『五輪書』を書き始めました。
熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺がある岩戸山に登って祈願したそうです。
ここは岩戸観音霊場があり、寺の裏山には霊巌洞という洞窟があります。
ここで武蔵が執筆したと言われています。
しかし、寛永21年(1644年)の夏に病に倒れして、執筆が進まなくなってしまいました。
同年の11月以降は、ほぼ執筆ができない状態になってしまいました。
正保2年(1645年)5月19日に武蔵は62歳で熊本千葉城の自宅で亡くなりました。
亡くなる7日前には、『五輪の書』を弟子の寺尾孫之丞に託したと言われています。
正墓所は熊本市龍田町弓削1丁目の武蔵塚公園内にあります。
生前の遺言によって主君の参勤交代を見守るために、参勤交代の主要道だった大津街道に面した場所に
甲冑姿で立身の姿で墓所に葬られたと伝えられています。