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武蔵は養子をとりました。
宮本家を継いでもらうため将来を期待していましたが、主君の死にともなって、殉死してしまいます。


武蔵が養子を迎えた経緯と宮本家の行く末を記しました。

宮本三木之助は剣豪として知られる宮本武蔵の最初の養子です。
先祖は伊勢国中川原城主で水野勝成の家臣・中川志摩之助の三男とされていますが。出自は諸説あります。

武蔵が水野勝成の客将として大坂夏の陣に出陣したのがきっかけと言われます。
水野勝成の子・水野勝重(水野勝俊)もこの戦に参加しており、この縁で大坂の陣の後、
三木之助は弟・九郎太郎とともに武蔵の養子に入ります。
元和3、4年(1617、1618年)頃に、武蔵の勧めにより播磨国姫路城の城主・本多忠政の嫡男・忠刻の小姓として仕えます。

本多忠刻は徳川家康の曾孫に当たり、家康の孫に当たる千姫を正室に迎えています。
徳川3代将軍・徳川家光の義兄という立場で将来が期待されましたが、寛永3年(1626年)享年31歳で病のため亡くなりました。
忠刻と千姫は仲睦まじく、子供にも恵まれました。
しかし男児は幼くして亡くなってしまったため、跡取りはいませんでした。
側近として仕えた三木之助は忠刻がなくなってから七日後に姫路市書写山圓教寺の忠刻の墓前で切腹し、殉死しました。
享年23歳でした。

辞世の句は
「思わずも雲井のよそに隔りしえにしあればや供に行く道 」
「立田山峯の紅葉に誘われて谷の紅葉も今ぞ散りたり」
三木之助の墓は忠刻の墓のすぐ後ろに建てられました。

三木之助の五輪墓の後ろには、殉死した家臣・宮田覚兵衛の五輪墓が建てられています。
三木之助の墓の隣には同じく殉死した岩原牛之助の墓が建っています。
長男が亡くなった宮本家は三木之助の弟・九郎太夫が家督を相続し、三木之助を襲名することになりました。
九郎太夫は本多家に仕え、のちに本多家が大和郡山へ配置変えになったときは
主君・本多政勝に従い姫路から大和郡山へ移りました。

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