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今から約400年前、二人の男・宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った。二人の戦いの様子を詳細に記しました。
巌流島の戦いの真実とはいったい!?


時は、慶長17年(1612年)4月13日。
巌流島は山口県下関市にある、無人島で戦いが繰り広げられました。
決闘を約束した辰の刻(午前8時)から2時間後、宮本武蔵は巌流島に船でやってきました。
小倉藩剣術指南役・佐々木小次郎は待ちくたびれて、苛立ちを抑えきれません。
小次郎は刀を抜き、海へ鞘を投げました。
武蔵が小次郎のもとへ刀を振りかざし,眉間目掛けて打とうとしたとき、武蔵は素早く木刀を振りました。
武蔵の刀は小次郎の額に当たり、小次郎は倒れました。
武蔵の額にしていた鉢巻は小次郎の打った刀により二つに切られました。
武蔵は倒れた小次郎に、再び木刀を振り上げた瞬間、小次郎は刀をかざし武蔵の袴を三寸切り裂きました。
しかし小次郎は脇腹や横骨などを打たれ気絶しました。

武蔵はそれから一礼して立ち去り、小舟に乗って下関の方へ進んだといいます。
小次郎は敗北しましたが、地元の人々に慕われの小次郎の剣の流派である「巌流」からとって、
その島を「巌流島」と呼ぶようになりました。
この巌流島は、正式には船島といいます。
現在は、数度埋め立てたので島の敷地面積は当時の5倍以上になっています。

当時の佐々木小次郎の年齢は18から70歳まで諸説あります。
武蔵が自らしたためた著書において、小次郎は登場しません。
武蔵の死後約100年後に武蔵の弟子が『二天記』において初めて小次郎が登場します。
果たして弟子による創作なのか、否かはっきりとした文書などが未だに見つかっていませんが、宮本武蔵が
亡くなってから9年後の承応3(1654年)、武蔵の養子・伊織により手向山公園に武蔵顕彰碑が建られました。
碑文には二刀流のこと、巌流島の決闘の経緯などが刻まれています。

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