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宮本武蔵の生い立ちから、対決した吉岡一門との決戦模様。
詳細な当時の決闘の様子、どのようにして勝利を治めたのか、真相に迫ります。


宮本武蔵は天正十二年(1584年)3月、田原甚右衛門家貞の次男として誕生しました。
祖先は播磨の豪族・赤松円心の次男・赤松貞範の系統に当たります。
室町幕府第4代将軍・足利義持の勘気に触れてしまい、三木城落城後、高砂・米田に土着し、田原と姓を改めたようです。
その六代目が原甚右衛門家貞です。

武蔵が誕生したとされる地は諸説あります。
長男・久光は田原家を継ぎました。次男であった武蔵は美作宮本村の平田(新免)武仁の養子になりました。
平田氏は守護・新免氏の家老職を務め、代々十手と刀術に秀でた家系でした。
武仁も十手術の達人で、第15代将軍・足利義昭から「日下無双」の号を賜りました。
武蔵は養父のもとでたくましく育っていきました。
   
武者修業に出た武蔵は対戦相手に京都の剣法の名門で京都西洞院に兵法所を構える吉岡一門の清十郎を選びました。
吉田家は祖・吉岡直元が足利12代将軍義晴に仕え、直元の弟・直光、直光の子・直賢が足利将軍家の
兵法指南役を務め、京八流の宗家でした。 
『二天記』によると、決闘が行われたのは慶長9年(1604年)武蔵が21歳の時です。
武蔵は五条大橋に挑戦状の高札を立て、決戦は洛北船岡山の北に位置する蓮台野で行われました。
決戦の開始時間は午前7時半でした。
しかし、約束の時間が来ても武蔵が現れる様子はありませんでした。
いらだち始め、心を乱された時、武蔵が現れました。
木刀を持った武蔵は、真剣の清十郎を一撃で倒しました。
そののち清十郎は息を吹き返し、出家したといいます。

この決闘を聞いた清十郎の弟・伝七郎(直重)は兄の仇を討つために、武蔵に挑戦を申し込みました。
決闘は京都の洛外で行われ、伝七郎は5尺の大木刀で打ちかかり、戦いましたが、大木刀は奪い取られ、
武蔵の勝利に終わりました。その場で亡くなりました。

吉岡一門の者たちは清十郎の子・又七郎(10歳)名目人に立て、決闘を申し込みました。 
武蔵は約束の時間よりも早く決闘場である郷下り松(京都市左京区詩仙堂の西)松の陰で待ち伏せしました。
吉岡一門が到着したところで、武蔵が飛び出し1人で数十人を討ち、一刀で七郎を切りつけたと伝わります。

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