[薩摩藩士・西郷隆盛の生涯]TOPへ
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銅像の西郷さんは、自信に満ちた表情をしていますが、
青年時代はどうだったのでしょうか?
■ 斉彬に可愛がられ、西郷の名が広まる
農政意見書が藩主斉彬に認められた西郷は、安政元年(一八五四年)、
庭方役(にわかたやく)という役に抜擢され、藩主について江戸に行きます。
そこで、条約改正や一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の将軍継嗣擁立に奔走します。
また、篤姫が大奥に輿入れするときの膨大な嫁入り道具を準備しました。
「この武骨者のおいどんが珊瑚、鼈甲、陶磁器、金銀細工に至るまで鑑識に長けているのは、
ほかでもない、その昔、篤姫君こと天璋院様入輿の際、調度品一切の調達を命じられたからでごわす」
と後述しています。
■ 斉彬の死で、殉死を希望する
しかし、人生うまくいくものではありません。
西郷を重用してくれた藩主斉彬が亡くなります。
敬愛する斉彬の死を知り、西郷は殉死しようとします。
しかし、説得され斉彬の遺志をつぐことを決意します。
薩摩藩は斉彬の弟、久光の子、忠義が相続します。
藩主の父、島津久光(ひさみつ)が後見役となりますが、薩摩の実権は斉彬の父、斉興(なりおき)が握ります。
この斉興と西郷はよい関係ではありませんでした。
■自殺を図った西郷さん
そのころ、井伊直弼(なおすけ)が大老に就任します。
前代未聞の朝廷による政治関与により、幕府は態度を硬化させます。
そこで、安政の大獄が行われました。尊王攘夷派の志士、公卿、皇族を粛清し、大名を蟄居させました。
西郷は京都の近衛家から尊王攘夷派の僧、月照(げっしょう)の保護を依頼され、下関経由で薩摩に帰りました。
しかし、待っていたのは、東目(ひよりめ)追放でした。
それは、日向の国に追放するといいながら、道中での斬り捨てを意味していました。
絶望した西郷は月照とともに、薩摩の錦江湾で入水自殺を図ります。
月照は死にましたが、西郷は運よく蘇生しました。回復には一月かかりました。
藩当局は、死んだことにして幕府の役人に墓を見せました。
そして、西郷を奄美大島に隠しました。