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坂本龍馬は幕末の志士の中でも高い人気を誇っています。
その理由はどこにあるのでしょうか?

■ 死罪もありえる脱藩をする!


長州から帰国後、坂本龍馬は脱藩しました。
龍馬の盟友武市半平太(たけちはんぺいた)は、脱藩した龍馬を
「土佐にあだたぬ(収まりきらない)奴(やつ)」と称えています。
当時、脱藩は重い罪であり、家名は断絶、捕らえられれば死罪さえ免れないものでした。
有名大企業に勤めているのに、辞表を出す。その程度の覚悟ではありません。
2度と故郷の土は踏めない、命をかけた決意でした。
実際、この時にすぐ上の姉に家宝の刀剣を譲り受け、
姉は責任を感じて自害するという悲しい出来事もあったのです。

■ 幕臣の勝海舟のもとで学ぶ!
脱藩後、龍馬は幕臣勝海舟の海軍私塾で操艦を学びます。
いわば敵のふところです。
そこで、多くの開明派の人々と語らい、独自の世界観を持ちます。
やがては、「薩長同盟」成立に尽力します。
さらに、亀山社中という日本初の商社を興し、その後、土佐藩の援助のもとに海援隊を発足しました。
当時の価値観に縛られず、当時の常識を超えた行動力でした。

■ 新時代の指針を示して、暗殺される
1873年、龍馬は大政奉還論の集大成ともいえる「船中八策」を完成します。
それはやがて土佐藩主山内容堂(やまのうちようどう)から建白書として、15代将軍徳川慶喜に提出されます。
そして、10月13日、ついに慶喜は大政奉還の号令を発しました。
龍馬は「誓ってこの公のために一命を捨てん。」と語ったそうです。
船中八策を受け入れてくれた、慶喜のために命を捨てようとさえ語った龍馬が、
盟友中岡慎太郎(なかおかしんたろう)とともに刺客の凶刃に倒れたのが、京都の近江屋です。33才でした。

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