スポンサードリンク

1582年に亡くなったとされる光秀。
しかし、彼の生存を確認できる証拠がたくさんあります。
謎の僧侶・天海とはいったい何者なのか。


明智光秀は亡くなったとされていますが、実は影武者が光秀の身代わりとなり、
光秀自身は僧侶として第二の人生を歩んでいたのではないかという説があります。

この説によると本能寺の変の後、光秀は密かに出家して天台宗の僧侶となり
「南光坊天海」と名を改めました。
実際にこの時代には天海という僧侶は存在していました。
天海は、比叡山から江戸へ行き、徳川家康、秀忠、家光の三代に渡って仕え
影の権力者となり将軍を支えていたようです。

周囲からは「黒衣の宰相」と称され、僧侶としてだけではなく陰陽道についての知識も
豊富で家康が眠る日光東照宮や徳川家の菩提寺である上野の寛永寺を建設しました。
光秀が天海ではないかという説を裏付ける数々の証拠も挙がってきています。

光秀が築城した亀山城(京都府亀岡市)の近隣には「慈眼禅寺」というお寺があります。
ここには、光秀の位牌と木像が安置されていますが、天海が亡くなった後に
朝廷から賜った号は「慈眼大師」といいます。

比叡山の松禅院にある石灯籠には「慶長二十年 願主光秀」と刻まれています。
寄進された日の慶長20年は1615年に当たります。
1582年に亡くなっているはずの光秀の名が刻まれています。
大坂夏の陣で豊臣家を討とうと願ったものだと思われます。
なお石灯籠は長寿院から移されたものです。

日光東照宮にある2対の木像の袴には明智家の家紋「桔梗」紋が見えます。

家光の乳母であり光秀の重臣だった斎藤利三の娘である春日局が
天海と初めて会ったときに「お久しぶりでございます」と天海に言ったとされています。
また、家康と天海が江戸で初めてあった時のこと。
家康は人払いをして密室の中、4時間も語り合ったといいます。

天海は107歳で亡くなったと伝わります。
天海の墓は日光と坂本(滋賀県)にあります。
坂本城は光秀の妻、娘など光秀一族が亡くなった場所です。
ここになぜか天海の墓があり、また家康の供養塔(東照大権現供養塔)があります。

スポンサードリンク

コメント

このページの先頭へ