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明智光秀が信長を討った本能寺の変。
当日の光秀の行動と信長の最後。
事件の3日前に、光秀がとった行動とは!
織田信長は備中高松城にいる秀吉からの援軍要請に応じるために、
1582年6月2日夕方、京都にある本能寺に泊まりました。
信長は、寺に多くの茶器を運んでいて千利休の茶会をする予定だったと伝わっています。
その時、明智光秀丹波亀山城(京都西部)重臣・斎藤利三、明智秀満、藤田伝五らと
作戦を練り、本能寺へ向かいました。
主君・織田信長を討つためです。
明朝6時、光秀軍は信長がいる本能寺を囲みました。前列には鉄砲隊を配置しました。
光秀軍の兵13000に対し織田信長はわずか100。
信長は鉄砲の音を聞き、ただならぬ事態だと察しました。
境内では小姓たちが光秀軍と戦うものの数十名が討たれ、
光秀軍は次々と寺の中に入ってきます。
信長は蘭丸から光秀が謀反の当事者であると聞きました。
明智軍は火矢を放ち本能寺は燃えていきました。
信長は「是非に及ばず」と言い、信長は弓矢を放ったあと槍で戦いますが
戦うのを止め、本能寺の奥の間で自刀しました。
炎上した本能寺は2時間後に鎮火しました。
本能寺の変の3日前、光秀は山城国愛宕山の寺(京都府中南部)を参詣し、
親交ある者たちと連歌会「愛宕百韻」で歌を詠みました。
一句目で光秀は「ときは今 天が下しる 五月哉」と詠みました。
実は、この句には光秀の「土岐家」と「時は今」が掛かっていて、「天が下しる」の「天」は
「雨」と「天下を治める」が掛かっているのではないか、つまり、光秀は本能寺の変で
謀反を起こす決意を詠んだ句なのではないかと考えることができます。
光秀が本能寺の変に至った原因として、怨恨説、野望説、悲観説、四国政策説、
黒幕説(朝廷説、足利義昭説、羽柴秀吉説、徳川家康説などが挙げられています。