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上杉謙信が女性?
確かにゲームなどのポップカルチャーでは中性的に描かれている事が多い気がします。
なぜそう言われるのでしょうか?
■生涯不犯と死因、普段の行動から考えてみよう!
多くの跡取り候補を、という理由から正室だけでなく、愛人も抱えていた武将が多い中で、
上杉謙信は生涯伴侶を持たず、養子を取り、跡取りとしました。
その理由として男色だったのではという説がある一方で、そもそも上杉謙信が女性で
妻をめとる必要がなかったからでは?という説もあるのです。
しかし、謙信は武将であると同時に、子供の頃仏門に入ったという僧としての一面もあります。
なので、信仰心から不犯を貫いたのでは、という考え方も出来ます。
それならば、跡取りが必ず必要な武将にも関わらず、独身を貫いたのも納得がいきますよね。
ですが、他にも女性説の根拠として有力とされているものがあります。
死因です。
江戸初期の大名、松平忠明が記した「当代記」という書物に、
上杉謙信の死因は「大虫」と記されているのです。
実は大虫は更年期障害から来る婦人病の一種なのです。
また、謙信は月に1回ほど、腹痛という理由で
戦を休んでいる時期があると、戦歴に残っているそうです。
これを女性特有の現象、月経なのでは?とする意見があり、
この様な所が上杉謙信は女性という説が浮上してきたのではないかと、と思われます。
■あの肖像画は江戸時代にかかれたもの!?本当は全く違う人らしい!?
私たちがよく見ている上杉謙信の肖像画は、髭が生えており、
どっしりと構えたとても男性らしい容姿をしています。
しかし、この肖像画が江戸時代に描かれたという話があるのです。
これには法が改正された事による、事情があります。
謙信が存命だった当時、織田信長の叔母に当たるおつやの方をはじめ、
女性の武将や城主はそれほど珍しくありませんでした。
そこには跡取りが娘のみ、将来城主となる男性がまだ幼く、
代わりにトップで束ねる人が必要など、さまざまな事情がありました。
しかし江戸時代に武家諸法度が制定され、女性が城主となる事が禁じられました。
そしてこれを制定したのが、上杉家と敵対する徳川家でした。
その為、過去にさかのぼって「男の城主がいない時期があるので家断絶とみなす」などの
言いがかりをつけられ、土地を大きく没収される可能性があったのです。
これでは本当にお家断絶してしまうかもしれない、という事で真実を隠し、
男性城主しかいなかったという事実を作り上げる中で出来上がったのが、
現在最も有名な上杉謙信の肖像画という訳です。
また、謙信が存命中にかかれた肖像画は、当時女性の描写時に
よく用いられた表現で描かれており、この様に相反する肖像画が存在することも、
女性説が浮上する理由なのでしょう。
■上杉謙信の好みと第三者の視点からも見てみよう!
実は上杉謙信には、赤い服を好んできていたという記録が残っています。
男性が女性のような鮮やかな色の服を着る「歌舞伎者」というファッションが
存在した事がありますが、これらの登場は江戸時代なので、
当時の男性が赤い服をよく着る、というのはかなり珍しかったと思われます。
更に上杉神社という所が、謙信が着ていたとされる衣装を所蔵しているのですが、
これが赤い花柄の女性ものなのです。
勿論真実を確かめる事は出来ませんし、当時でも赤を好んで着る男性はいたかもしれませんが、
謙信が奇抜な服装を好む、いわゆる傾奇者であったという言い伝えは残っていないので、
普通に女性として赤を好み、日常的に着ていたとしても納得がいきますよね。
更に謙信が書いたとされる書状などは文面が柔らかく繊細で、かなり女性的であるそうです。
また、第三者の視点から上杉謙信を見た記録で、少し気になるものがあります。
実はこの頃、スペインから宣教師や貿易関係者が派遣されて来ていました。
その中の一人、ゴンザレスという人が国王に書いた報告書に「上杉景勝が、伯母の謙信が
佐渡で掘り出した黄金を持っている」という内容があるのです。
叔母という事は確実に女性ですよね。
また、原文でも当時の言葉ではっきりと叔母と書かれているそうです。
書き間違い何ていうこともあるかもしれませんが、否定は出来ないですよね。
他にももうひとつ。容姿に関する記述で、大柄であったとするものと、
身長は156cmだったとするものの2通り存在するそうです。
これをどうとるかは難しいところですが、当時の概念で
女性の156cmは大柄だった、とするなら話に矛盾は生まれないのでは、と推測できます。