[武将・上杉謙信の素顔]TOPへ
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数多くいる武将の中でも生涯現役という言葉が最も似合う上杉謙信。
その波乱の生涯をご紹介!
■子供の頃の上杉謙信は小さな暴れん坊だった!
上杉謙信は現在の新潟県上越市ににあたる、越後で生まれました。
幼名は虎千代といい、寅年に生まれたことに由来すると云われています。
子供の頃から体格も大きく、自分より年上の子供達と相撲などの
体を動かす遊びをよくやっていたそうです。
一方で頭も良く、大人向けの難しい教えをしっかり理解していた為、
守り役が驚いたというエピソードもあります。
そんな虎千代ですが、目に余る行動があまりにも多かったため、
7歳の頃に林泉寺というお寺に預けられてしまいます。
はじめは暴れて墓石を倒すなどやりたい放題でしたが、
父親の為景の死をきっかけに変わっていきます。
落ち着きを身につけ、ソレを見た林泉寺の天室和尚の熱心な指導の下、
学問に力を入れるようになりました。
こうして、虎千代こと上杉謙信の人間としてのベースが築かれたのです。
■虎千代から景虎へ。動乱と謀反の青年期に迫る!
虎千代が元服して景虎になった頃、兄の晴景が越後中部を統治していました。
しかし、病弱な彼は内部での争いを解決する事が出来ませんでした。
そしてとうとう、晴景をみくびっていた越後の豪族たちが反乱を起こしてしまいます。
この反乱軍を倒したのは、病弱な兄に代わって、景虎が越後中部にある
内紛を統治する目的で栃尾城に入った景虎でした。
この時の景虎は14歳。初出陣で勝利したこと、10代とは思えない勇ましい姿に
人々は驚きを隠せなかったと伝えられてします。
その後も越後の動乱は続き、景虎はその度に出陣し、勝利を収めていきました。
そんな中、彼が城入りしていた長尾家の家臣、黒田秀忠が謀反を起こします。
しかし、景虎の出陣に驚いた黒田はすぐに降伏しました。
この様子をみた景虎は二度と裏切らないと黒田に誓わせ、彼を許します。
にも関わらず、再び黒田は謀反を起こします。
当時から何より義を重んじる性格であった景虎はこれに立腹し、兄の晴景と共に
黒田秀忠を討ち、黒田一族を滅ぼします。
実はこの時に共に戦った晴景と景虎ですが、
晴景はいつか弟に先を越されるのではと景虎を恐れていました。
その様子を見ていたのが、景虎のいとこの政景でした。
同じく景虎を恐れていた彼は晴景を利用し、景虎を倒そうとします。
先手を打てと政景に言われた晴景は、六千の兵を率いて景虎の元へ向かいます。
しかし、この流れを予測していた景虎は、迎え撃つ準備を整えていました。
この兄弟での争いは、当時の越後を実質上治めていた守護代、上杉定実が間に入り、
晴景に景虎を養子にするよう助言し2人が「父子の義」を結んだことで終わりを告げました。
■越後統一後も戦つづきの上杉謙信!
ある時、景虎に大きなチャンスが巡ってきます。上杉定実が死去した為、
景虎が実質上の越後の国主の地位につく事を認めると、
時の将軍足利義輝から通知が来たのです。
しかし、同じ頃、政景が謀反を企てていました。
景虎はこれに勘付き、政景に彼の城を総攻撃すると通告しました。
これを受けた政景は誓いの言葉を景虎に送り、許しを請いました。
景虎は政景を許すつもりはなかったものの、姉の夫にあたる重臣達の助命を求める内容も
含まれていたため、最終的には総攻撃を中止したそうです。
その後の政景は景虎に忠義を尽くし、彼の為に尽力したと言われています。
長尾政景が景虎の部下になった事で長尾家との争いが収束しました。
その結果、景虎は弱冠22歳で越後統一を成し遂げたのです。
その後、景虎は後世で最も有名な上杉謙信に改名します。
しかし、それまでにも何度か名を変えており、いつ上杉謙信になったのか、
はっきりと断言は出来ないそうです。
また、22歳で越後を統一した後も、12年間に渡った川中島の戦いや、
小田原城での戦い、かの有名な織田信長との戦いなど、戦に明け暮れる日々が続きました。
49歳でこの世を去った上杉謙信ですが、織田軍との戦いに備えていたのは48歳と言われています。
まさに生涯現役という言葉が最もぴったりくるのではないでしょうか。
義に厚く戦そのものを楽しんでいたのではと伝えられる彼だからこそ、
この様な生涯を送ることが出来たのかもしれませんね。