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多くの人が漱石の作品に初めて接する機会は、
国語の教科書で教材として、ではないでしょうか。
明治の作品の中で、漱石の作品が現代の読者にとってとっつきやすい理由の1つには、
漱石作品の中にあるユーモア感覚があるでしょう。
■漱石の作品の中にあるユーモア
教科書に収録されていたことが多かった『坊ちゃん』。坊ちゃんの喋りはほとんど落語です。
「野だは大嫌だ。こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまふ方が日本のためだ」
「新聞にかゝれるのと、泥鼈に喰ひつかれるのが似たり寄つたりだとは今日只今狸の説明に因つて始めて承知仕つた」
「発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられて堪るものか」
など、『男はつらいよ』の車寅次郎か、ビートたけしの鬼瓦権造のようなセリフ回しによってほとんどが構成されているのが『坊ちゃん』です。噺家に再構成してもらって高座で放されたら、再びこの作品は流通するかもしれません。
漱石が文壇にデビューした『吾輩は猫である』。この作品の主人公である「猫」にさんざん罵倒される苦沙弥先生ですが、このモデルは漱石自身といえます。
胃弱で薬に頼っているくせに食い意地が汚い点や、知識を総動員して周囲の人間と問答にふける点などは、しばしば漱石について著された本で指摘されています。
もともと『吾輩は猫である』はホトトギス同人の前で口頭で示されたもので内輪向けのところはありますが、漱石が自分を客観視して戯画化するという、笑いの基礎に長けていたことがわかります。
漱石のユーモアセンスを示すものに、大正三年に学習院で行った講演「私の個人主義」があり、
「わざわざ私のやうなものの講演を、春から秋の末迄待つても御聞きにならうといふのは、丁度大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚が一寸味はつて見たくなつたのではないかと思われるのです」
と、落語の表現を用いてわかりやすく話していることがあります。