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明智光秀とその妻、そして3人の子供たち。
城主として生まれながらも諸国を放浪する日々。
その陰には妻の支えがありました。子供たちの運命はいかに。
明智光秀の明智家は清和源氏の摂津源氏で、美濃源氏土岐氏の支流です。
父は現岐阜県可児市明智の明智城主・明智光綱です。
天文7(1538年)光秀が13歳の時、父・光綱が亡くなり家督を相続しました。
大永6年(1546年)21歳で山岸光信の娘を正室に迎え入れました
が妻は亡くなってしまいました。
7年後、継室として美濃国東部の土豪であった妻木範煕の子・煕子を迎え入れます。
煕子は享禄3年(1530年)頃生まれ、結婚した当時は19歳でした。
美しい娘でしたが、光秀との婚約期間中に皮膚の病である疱瘡にかかり
体中に痕が残ってしまいました。
煕子の父・妻木範煕は煕子と瓜二つの妹を光秀のもとへ嫁がせようとした。
しかし、光秀はそのことを見抜いて、煕子を正室に迎えたといいます。
光秀は煕子の存命中、側室を一人も置かずに彼女だけを愛しました。
光秀は、斎藤道三に仕えていましたが、煕子と結婚した1556年、
斎藤道三と子・斎藤義龍の間で争いが起こりました。
光秀は道三についたため明智城を義龍に攻められ、明智一族は討たれました。
光秀は明智家再興めざし、諸国を放浪する浪人となりました。
諸国では禅寺を間借りさせてもらい、煕子は黒髪を売り、光秀を献身的に支えたという。
煕子は、本能寺の変が起こる6年前の天正4年11月7日(1576年11月27日)に亡くなりました。
墓所は明智家と妻木家の菩提寺・西教寺(滋賀県大津市)です。
光秀と煕子の間には3人の子供がいました。(諸説あります。)
嫡男の明智光慶は永禄12年(1569年)に誕生し、山崎の戦いで父が討たれると、
中川清秀、高山右近らの攻撃により天正10年6月15日(1582年7月4日)14歳で自害しました。
長女は天正10年(1582年)6月2日に誕生し、織田信長の甥・津田信澄に嫁ぎ
正室となりました。
津田信澄は本能寺の変の後、妻が明智家出身であった事が原因で、
織田信孝と丹羽長秀に攻められ、野田城で信孝の家臣によって討たれました。
次女、珠(細川ガラシャ)は永禄6年(1563年)に誕生し、
信長の家臣である細川幽斎の嫡男・細川忠興へ嫁ぎました。
慶長5年7月17日(1600年8月25日)石田光成軍がガラシャを人質にとろうとしたため、
夫の命に従い細川屋敷(大阪)にて亡くなりました。