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岐阜県の明智城を攻められ浪人となった明智光秀。
近江の琵琶湖近くに坂本城を築城し、念願の城主となることができました。
今はなき坂本城の当時の様子、坂本城の行方、今なお慕われている光秀を追いました。


元亀2年(1571年)9月12日、信長は3万の兵で比叡山延暦寺の焼き討ちを決行しました。
その後、信長は延暦寺を監視できること、京都に通じる交通の拠点であることから、
比叡山麓の現在の滋賀県の支配を光秀に命じました。
そこに光秀は同年に坂本城の築城を開始しました。

吉田兼見『兼見日記』によると、元亀4年(1573年)6月に坂本城を訪れた吉田兼見は
光秀と天主の下に立つ小座敷で対面しているので、
築城会場から2年の間に城は完成していたようです。
坂本城内には琵琶湖の水を引いた水城でした。
光秀の茶の先生である津田宗及が招かれ、茶会を催しました。
その後、「城内から御座船に乗り、安土城へ向かった」と記しています。

坂本城には大天主と小天主あり、当時日本にいたイエズス会の宣教師である
ルイス・フロイスは『日本史』の中で「明智の築いた城は、
豪壮華麗で安土城に次ぐ名城である」と記しています。

光秀は坂本城を拠点として近江国を平定し、その後、
丹波亀山城(京都府)の城主にもなりましたが、引き続き坂本城の城主も務めたようです。

本能寺の変の後、光秀の娘婿で重臣でもある明智秀満と光秀の一族らが坂本城に
篭城しましたが、秀吉軍に包囲され秀満は自ら坂本城に火を放ち自害しました。

現在、城跡は坂本城址公園となり、坂本城址石碑、二ノ丸跡などがあります。
本丸跡の石垣は、琵琶湖の湖底にあります。
近隣にある西教寺には、光秀の書状などがあります。
光秀の命日には光秀公顕彰会によって西教寺で法要が営まれています。

また丹波の領民は、光秀を「御霊さま」と称し大祭を行っています。
他にも「福知山御霊大祭」「亀岡光秀まつり」「ききょうの里」といった
光秀にちなんだ行事が今も開催されていて、
光秀が領民たちに慕われていた様子が伺うことができます。

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