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・信長の四国政策一変も本能寺の変で危機脱出

元親は阿波、讃岐、伊予に次々と侵攻します。元親の勢いに圧された大名たちは信長に救援を要請します。


信長と元親の関係が崩れ、信長による四国攻めが計画されましたが、
本能寺の変により頓挫し、三年後、ついに元親は念願の四国制覇を実現します。

・元親 vs 秀吉 = コウモリ vs サル

本能寺の変に続く山崎の戦で、一躍信長の後継者に名乗りを上げたのは羽柴秀吉でした。
秀吉に対する元親の評価はなぜか低かったようです。賤ヶ岳の戦いの折には柴田勝家に、
小牧・長久手の戦いでは徳川家康につき、紀州の雑賀衆と組んで秀吉を背後から攻めようとしました。
これは元親の正室が光秀の重臣・斎藤利三の妹であり、光秀が秀吉を嫌っていたことから、
秀吉を低く見る者が元親の周辺に多く、元親の眼を曇らせた可能性があります。
一方、秀吉の元親に対する評価も信長を踏襲した「コウモリ」程度のものだったようです。

・土佐一国に逆戻り

秀吉の四国攻めが開始されると、阿波一国の戦いで兵力の差が浮き彫りとなり、
わずか一カ月の後に元親は秀吉に降伏を願い出ることになります。
秀吉はそれを受け入れ、元親には土佐一国が残されました。元親の落胆はどれほどのものであったか、
想像を絶します。
一方、無謀な戦によって一族や家臣を全滅から救うどころか、
兵力を失うことなく降伏をした元親の決断は当時の戦国大名の中にあって、賞賛に値するものではないでしょうか。

・一領具足~長宗我部軍の致命的な弱さ~

元親の長宗我部軍には致命的な欠点がありました。それは中心となるのが、
一領具足と呼ばれる兵農未分離の戦闘集団だったからです。農繁期には田畑を耕さなければならず、
戦は農閑期に限定されます。元親が四国統一まで二十年という途方もない歳月を要さなければならなかったのは
農閑期にしか戦をすることができなかったからです。
一方で一領具足は無理に駆り出される徴兵ではなく、ほとんどが志願兵でした。
いざ戦となれば、元親のために身命を賭して戦うという非常に心強い軍団でもあったのです。
しかし、兵農未分離の集団では、近代的な専門戦闘集団を形成した信長や秀吉の軍勢に抗することはできませんでした。

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