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井伊谷城は現在の浜松市北区に井伊谷城跡城山公園として、わずかに土塁のみが残された状態ですが、
その歴史は遠く南北朝時代にさかのぼります。
常に東西の勢力図のはざまにおかれ、平和な時代を持ったことが無い悲運の城でした。戦国時代に入ってからは東の今川方に組しましたが、これがいわゆる運の尽きで悲劇の連続に見舞われました。
しかし様々な苦境にもかかわらず、ついに井伊家を再興し徳川四天王のひとり井伊直政を世に送り出した女性がいたことはあまり知られていないようです。
その名は出家時は「次郎法師」、家督を継いでからは「井伊直虎」と男名を名乗っていましたが、
晩年には家督を直正にゆずると再び出家し「祐圓尼」と名乗ったそうです。
しかし彼女が女性であり有能な政治手腕の持ち主であったことを示す名は、徳川家康が親しみを込めて呼んだ
「お虎」ではないでしょうか。
お虎は度重なる今川方の謀略にかかったことで、ついに今川と決別し家康のいた浜松城へと身を寄せたのでしたが、この時以来
家康に「お虎」と愛称をもらい手厚い庇護のもと、ついには井伊谷城を奪還し東方への抑えの役を果たすことになったのです。
その後、一度だけ武田信玄の大軍に飲み込まれて城を明け渡したことがありましたが、信玄が急死し軍も立ち退いてたことから、
からくも城を取り戻したのでした。
この後の井伊家は直政が当主となり、関ヶ原の戦いでは「井伊の赤備え」と呼ばれる勇猛な騎馬隊をひきいて大あばれ、
ついには彦根藩主となり35万石を与えられたのでした。