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「これと言った武の話が無い石田三成」
三成に関しては戦下手というのがもっぱらの評ですが、
これは関ヶ原の合戦で敗北したことと北条征伐における忍城攻めの失敗が原因でしょう。
ただ武将の評価は武だけではなく、文の方もしっかり見る必要があります。
「戦を裏方で支えた三成」
戦をする場合、日の目を見るのは槍働きですが、一騎打ちで勝敗を決すのならともかく、数千数万規模の衝突で
勝敗を決する戦国時代の合戦では、どれだけ鉄砲をはじめとする武具や兵糧をしっかり準備できるかも重要なのです。
その点三成はそういう点は大変すぐれた武将だったようです。
実際のところ秀吉の戦で三成は兵站の仕事に従事し結果を残しております。
「重要な都市の奉行を歴任」
三成は内政手腕も持っていたようです。
そのため堺、博多などの奉行を歴任し、豊臣政権の屋台骨を支え続けました。
奉行というと大岡越前や遠山の金さんなどの影響で司法の面ばかりクローズアップされますが、奉行の仕事はそれだけにとどまりません。
税の取り立て、経済政策の実施、商人との交渉なども行っているのです。
その点三成はその仕事を滞らせたという記録が残っていません。
現在残っている記録のほとんどは徳川家によって残されたものですので、三成にマイナスになるような記録は、あったならば絶対に残してあるはず。
それが無いということは、やはり優れた奉行であったことの間接証拠となるでしょう。
「五奉行として全国を統治」
秀吉の晩年、政治の仕組みとして五大老五奉行制が導入されます。それまでの実績を買われて三成も五奉行のひとりに抜擢されます。
まさに内政で手腕を発揮した三成の面目躍如と言ったところでしょう。