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「すべての責任は三成?」
豊臣政権内の文治派と武断派の争い。
文治派、特に石田三成が元凶であるというのが一般的な認識ですが、本当にそうなんでしょうか?
1「文治派と武断派が仲悪いのはどこも一緒?」
文治派とは内政に秀でた武将たちのことであり、豊臣政権では三成をはじめ、長束正家、増田長盛、大谷吉継らがこれに当たります。
一方武断派とは、武芸に秀でた武将のたちのことであり、福島正則、加藤清正、蜂須賀家政、浅野幸長らがこれに該当します。
基本天下統一するまでは、武芸に秀でた者たちが重用されますが、天下統一が成ったら、
天下を治めるために内政に優れた者たちが重用されるのが普通。
ですから武断派からすれば天下統一できたのは俺たちの力。
文治派のやつらは何もやっていないではないかとなるのです。
これは豊臣政権だけではありません。
初期の徳川幕府内でも同様なことが起こっているのです。
2「文治派と武断派の後ろにいる人物の代理戦争」
文治派と武断派に分かれている豊臣家の武将たちですが、見方を変えると文治派=近江出身者、
武断派=尾張出身者の争いと見ることもできます。
そしてそれぞれの後ろ盾になっていたのは文治派が淀君、尾張派はおね(北政所)ですので、
彼女たちの代理戦争だったのではないかという言う説もあるのです。
そうであるなら三成が悪いというのはちょっと違うことになりますね。
3「仲が悪くなった原因を作ったのは秀吉?」
実際ところ、朝鮮出兵までは文治派と武断派は仲が悪いと言っても同じ豊臣政権を支える位置にいましたので、
仲が悪かったにしろ、憎しみ合うというところまでは行きませんでした。
ところが朝鮮出兵の折、武断派の功績を、文治派の武将たちが過小評価したので、一気に関係が悪くなったと言われています。
しかしこの武断派の功績を低く見積もるように指示したのは三成ではなく、秀吉だったという説がありますし、
朝鮮出兵を行わなければ、ここまで両者の関係が悪化することも無かったでしょう。
つまり、憎しみ合う原因を作ったのは三成ではなく、秀吉だったと言えるのではないでしょうか。