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剣豪と知られた宮本武蔵。彼は13歳で最初の決闘に勝利し、以後28、9歳まで60回以上の決闘に勝利しました。
その武蔵が対戦相手に選んだ佐々木小次郎とはいったい何者なのでしょうか。


武蔵の弟子が記した『二天記』によれば、小次郎は越前国宇坂ノ庄浄教寺村出身(福井県福井市浄教寺町)で、
同国の中条流の剣豪・富田流宗家の富田五郎左衛門入道勢源の家人となり、幼少期から剣の稽古に励み師事していたようです。

小次郎は、師・勢源の弟である富田治部左衛門景政と勝負し、勝利しました。
これを機に、勢源から立ち去り、武者修行にでました。
3尺(約1メートル)の長太刀で稽古をしているうちに扱い上手くなり、自ら一流「巌流」を興したされています。
小次郎の代名詞ともいえる「燕返し」は諸国を武者修行している間に、周防国(山口県)の錦川で
飛んでいた燕を斬ったことから編み出したと伝わります。
小次郎が豊前小倉(福岡県北九州市小倉)に来た時に、腕の評判を聞いた藩主・細川忠興が小次郎に
小倉に留まるように命じ、やがて細川藩の剣術指南役となりました。

『二天記』には巌流島の戦いの時小次郎は18歳であったと記しています。
戦に負けたことがなかった小次郎でしたが巌流島の戦いで宮本武蔵に討たれ、亡くなりました。
その時、小次郎の妻・ユキは懐妊中でした。
キリスト教の信者だったユキは亡くなった小次郎の遺髪を胸に抱き、多くの信者たちと
山陰の山口県阿武町大字福田下の真言宗・正法寺に身を寄せ、剃髪しました。
夫の菩提を弔うために墓を建て、近くの庵で一生を過ごしたそうです。
我が子への因果応報を断つために、「小次郎」を「古志らう」と名を変えて墓に刻んだと伝わります。
小次郎の墓の上段にはバテレン墓(六面石憧一基)があります。
また周囲には佐々木姓の墓が多くあり、現在でも佐々木姓が数軒あります。

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