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1900年5月から1902年12月にかけて、漱石はロンドンに官費留学していました。
漱石にとっては「尤も不愉快の二年なり」(『文学論』)と述べていますが、
この時代に相当な量の文学に触れたことや、池田菊苗やクレイグなどの知識人と交流があったことが、
後年の文芸活動に寄与したと考えられます。
そして、漱石が下宿していた時代や場所から、「彼」と遭遇する機会があり得た、
と想像する人も少なくありません。
彼の名は、シャーロック・ホームズ。
■漱石とシャーロック・ホームズが出逢っていたら?
もちろん、ホームズはアーサー・コナン・ドイルの生み出した創作上の人物ですから、出会うことは叶いません。
ですが、出会いがあれば互いに大きな影響を及ぼしたことでしょう。
そんな想像を満足させてくれる作品に、島田荘司氏の『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(光文社)があります。
漱石は1902年で36歳、ホームズは48歳です。この頃にホームズが手掛けていた事件としては「6個のナポレオン像」(『シャーロック・ホームズの帰還』)「カーファクス姫の失踪」(『ホームズ最後の挨拶』)などがあります。
ホームズは日本の武術を習得したり、日本の美術に造詣があったりと日本びいきなところがありましたので、漱石の話を興味深く聞いたのではないでしょうか?
そしてワトソン医師も漱石の栄養不良の回復に手助けをしてやったでしょう。
ホームズも不規則な食生活や、しばしば襲われる躁鬱の発作(「ライギートの謎」など)など、漱石と似た悩みをもっていた人物です。似た者同士、かつ当時有数の恵まれた頭脳を持った2人が交流すればどんな化学反応が起きたか、考えるのは楽しいものです。
漱石が当時、ベーカー・ストリートを何度か通ったのは確かですので、もしかしたら、ということはあったかもしれません。