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阪急電鉄の礎を築いた小林一三。

さまざまな事業を手掛けたアイディアマンと称される彼の才能はどこから生まれたのか。

幼少期を紐解き、彼の真の姿に迫りました。


アイディアマンである小林一三の源流はどこからきたのでしょうか。
その謎を解くには一三の幼少時代にさかのぼります。一三は山梨県韮崎市で生まれました。裕福な商家で幼少期から芝居小屋に足を運んでいました。慶応義塾大学入学後も、頻繁に芝居小屋や歌舞伎に出入りしていたようです。書くことも好きで、山梨日日新聞に小説を連載していたというほどの腕の持ち主です。この才能は宝塚歌劇で脚本や楽曲を手掛けることにも生かされました。
大学卒業後は三井銀行(現・三井住友銀行)大阪勤務時にも小説や芝居にのめりこみ、劇場に頻繁に足を運んでいました。
帝劇ではオペラ「熊野」観劇しました。世界的な名声をつかんだオペラ歌手・三浦環や日本オペラ界の開祖の一人・清水金太郎らが出演者していました。観客はゲラゲラと笑いが起こる中、笑わない男女たちが客席にいました。それは音楽学校の学生たちでした。彼らを存在を知り、これからの日本のオペラの未来が広がっていることを知り、私(一三)のアイディアにみんな必ずついて来るという確信が得られました。
 
これらすべての経験が現代の宝塚歌劇の誕生に注がれています。また、当時大阪の三越呉服店では、当時20-30人の少年が赤地格子縞の洋服を着て、羽根のついた帽子をかぶった少年音楽隊が余興をサービスし話題になっていました。これを真似て、三越から指導を受け、大正二年七月、宝塚唱歌隊第一期生16名と第2期生4名が加わり「宝塚少女歌劇養成会」が組織されました。入学資格は小学校修業15歳以下の少女で入学後、3年間で器楽、唱歌、和洋舞踊、歌劇などを教えるという日本初のアイディアを生み出しました。

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