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宝塚にプールを開業し集客を狙うものの、利用客は減少していきました。
プール事業は失敗だったと思われた直後、
意外な事業で利用客をあっと驚かせました。
明治25年、宝塚に温泉浴場ができ、宿屋や料亭が姿を見せ始めました。明治42年箕面有馬電気軌道(のちの京阪神急行電鉄)の電車が開通しました。乗客の増加をはかるには、住宅地として発展させようと小林一三は考えました。また、それらができるまで遊覧設備を作ろうと思いついたのです。そして宝塚には大理石でできた大浴場、モダンな「宝塚新温泉」が完成しました。
新温泉場とともに利用客は増加しました。そこでさらに新温泉の娯楽設備を充実させることとなり、翌年七月には近代的な構造の洋館と室内水泳場「パラダイス」を設けました。
これにより、さらに利用客増加を期待できました。しかし、このプールを利用する人々はだんだんと減って行きました。
なぜならこの室内プールは水が冷たく、5分と泳げないばかりではなく、競技の観覧ができない、男女が共に泳ぐことが許されなかったなどの理由から閉鎖されることになりました。小林は当時を振り返り、「失敗」だったと『逸翁自叙伝』で述べています。
しかし、ここでどんでん返しが起きました。この水泳場に板を敷いて客席とし、更衣室を舞台に、温泉場の余興を催すと利用客が徐々に増加していきました。失敗した「パラダイス」の室内水泳場を利用することとなり、その水槽の全面に床を設けて客席とし、脱衣場を舞台に改造して、公演を行ないました。第一回公演は歌劇「ドンブラコ」 喜歌劇「浮れ達磨」 ダンス「胡蝶の舞」の三項目でした。約九ヶ月間養成し、大正三年四月一日公演の幕を開けました。
温泉場の余興として誕生したというものの、日本で一つの新分野を開拓するものでした。歌劇は好評を博し、春、夏、秋、冬の年四回公演を行うことになりました。それから大毎慈善歌劇会、北浜の帝国座、道頓堀の浪花座、中之島の中央公会堂で新作を上演しました。各方面から招聘されて、大阪、京都、神戸でも公演を行なった。観客を収容し切れないほどの大盛況でした。 これが今年100年を迎える宝塚歌劇団のスタートだったのです。