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ブルース・リーは幼少時代を過ごした香港で喧嘩に明け暮れ、アメリカでは道場破りをなぎ倒し、

世界的アクションスターとなった後も地元の香港で売られた喧嘩を買って全ての喧嘩に勝利しました。


1940年にアメリカのサンフランシスコで広東演劇の役者の中国人の父親とドイツ・中国のハーフの母親である中国人の母親の間に産まれたブルース・リーは、1歳の時に家族がアメリカから離れて香港に帰国してから彼が18歳になるまで香港で幼少期と青春時代を過ごしました。

香港時代のブルース・リーは、香港では有名な「不良」で、社交ダンス大会などで活躍する一方、学校の内外で喧嘩に明け暮れる日々を送っていました。
持ち前の運動神経の高さに加え、「詠春拳」「節拳」「功力拳」といった中国のカンフーを幼少時代から学んでいた彼の喧嘩の強さは香港中に知れ渡り、学校の通学時に他校の生徒から喧嘩を売られる事もしばしばで、そんな時彼は絶対に逃げず、全ての喧嘩に応戦して闘っていました。
そして全ての喧嘩に彼は勝利しました。

そしてブルース・リーは18歳の時に喧嘩をした相手を大怪我させ、警察沙汰になってしまいます。
息子が香港中で「演劇役者の不良息子」としての悪名が知れ渡っている事を危惧した彼の父親は、18歳のブルース・リーにアメリカに行って暮らす事を命じたのです。
これがブルース・リーの人生を大きく左右する出来事になりました。

その後アメリカに渡った彼は截拳道(ジークンドー)というカンフーとボクシング、レスリング、柔道などの様々な格闘技を取り入れた格闘技を創始し、彼の道場に道場破りに訪れた屈強の大男達を全て打ち負かしたと言われています。

その後彼は香港に戻ってアクション映画の数々を製作し大ヒットとなるのですが、アクションスターになってからも香港でカンフーの武術家から喧嘩を売られると、その場所が路上だろうと何処であろうと必ず喧嘩を買い、晩年となった路上の喧嘩でも全て勝利していた、と彼の親友である往年の映画俳優のジェームズ・コバーンが実際に香港で目撃した目撃談として以前インタビューに答えていました。

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